pgssgld.gif
WHAT'S XANADU
Once Upon A Time永遠の都 上都(シャンドゥ)XANADUあった。
元の皇帝が毎年避暑の為に滞在した都市で、首都/大都(今の北京)に対し陪都の位置にあった。ラン河の上流左岸に近く、河を隔てた右岸のドロニの町の西北約36キロメ-トルに至るラン河に臨むので、元代にはラン京ともよばれた。今、モンゴル語で、Chao-naiman Suiime Khotun(チャオ・テイマン・スメ・ホトン)といい、『百八廟城』を意味する。ラマ廟が多数存するからであろうか。クビライが1256年、この地に城を築かせたのがこの都城の期限である。1260年クビライは、この地(上都)で帝位につき、ここを開平府と名付け、1264年(中統5年)には、これを上都として中都燕京(今の北京)に対せしめた。中都は、1272年(至元9年)大都と称されたから、以後上都は大都に対する陪都となり、歴代の皇帝の避暑の地となって元末に及んだ。
元代にモンゴル人がこの都をShangh Keibiing Kiirdii Balghasum と呼んだのは『上都開平涼京』の意で、マルコポーロがシャンドゥChabdu(又はシャンドゥXandu) といい、オドリコックがサンドゥSanduと呼び、降って、イギリス人の詩人コールリッチがその詩(Kubla Khan クーブラカーン・フビライハーン)にザナドゥXANADUと称したのは、いずれも上都(Shang-tu)の音の訛である。上都のことについては、又マルコポーロがいわゆる「竹の御殿」があったという様に語りついでいる。それは「竹の御殿」すなわち宗毛殿(そうもうでん)の跡と思われ、竹を主要材料とした組み立て、取り壊し自在な大帳殿であったと記されている。1937年原田淑人ら東亜考古学会調査団が全貌を明らかにした。外城は、一辺約1,389mの正方形で、土壁の外側に石材を積み、門が東西各2、南北各1門ある。内城は、東西約556m、南北約611mで、城壁に囲まれ、北壁中央から大安閣と推定される宮殿跡の、高さ約9mの土台が突出し、その前方に宮殿宮門を偲ばせる方形・長方形の建築跡が散在する。外壁内の北東と北西には龍光華厳寺と乾元寺の跡と思われる土台が相対する。
「そこには大理石と金箔とでつくられた壮麗な宮殿があり、聖河・森・渓谷には、ありとあらゆる種類の動物たちが遊び、草花が咲き乱れ、幸福感が溢れていた」と、マルコポーロの東方見聞録は伝えている。
*クーブラ・カーン(フビライ・ハーン) 上都(Shangtu) XANADUイギリスの詩人S.T.Colerige(1772-1834)
 『Kubla-khan(1816)』の始めに出てくるので有名である。この詩にフビライハーンが上都に定めた壮麗な歓楽宮が完成し、Alpaのラン河が滔々と流れ、森や渓谷や深遠なる百花、馥郁と咲き乱れる営園の光景を描き、それに配するに、月下に倭人を恋いて、泣き詫びる乙女と、楽器ダルシマー(Dalcimer)を抱えて歌を唄うアドシニアの乙女をもってして、ローマン詩人としてのコールリッジの偉大な特質をことごとく兼備している。1797年(あるいは翌年の)秋、機嫌を損ねてある農家でPurchas His Pilgrimage中にKhan Kubla(1215-1294)の上都に造営の歓楽宮の一節を読みながら仮眠に落ち、夢の中で二、三百行の詩を作り、目覚めて直ちに筆をとり、54行の断片を書いたとき、来客に妨げられて1時間の後、再び書き続けようとしたが、幻想はついに帰らなかったといういわくつきの(因縁)詩である。

米国ハーバード(Harvard)大学のJL.Lowesは、The Road to XANADU(1927出版:1930改訂)で、この詩の出所を研究しているので有名である。
原詩の最初の数行をあげておこう。
  In XANADU did Kubla Khan
    A Stately Pleasure-dorne decree:
   Where Alph. the aocred river, ran
    Through Caverns Measureless to man
      Down to a Sudless Sea.
                
               by The Road to XANADU
TOPに戻る
XanaduPROオフィシャルサイトへ